鏡リュウジ公式サイト BETWEEN THE WORLDS

上なるモノは下なるモノのごとく、下なるモノは上なるモノのごとく。



「オカルト」とは
そもそも「隠されたもの」という意味のラテン語。本コーナーでは、鏡リュウジが気になる「オカルト」的なことをお題に選んで掘り下げていきます。

オカ研File No.31 スーパームーンの中秋の名月。夜空を見上げましょう 2
2015/9/28


あるいは日本でも古くは万葉集に、

「秋風の清き夕(ゆうべ)に天の川 舟こぎ渡る月人男(つきひとおとこ)」

という歌があります。

この月人男と必ずしも同一視されている訳ではないようですが、日本では神話のツクヨミのように、月はもともと男なんですね。たとえば民俗学者の松前健さんの「月と水」という論文の中に、月の信仰は大きく三系統に分けられるという記述がありましたので、ここで紹介させてもらいます。

一つ目は「若返りの水(をち水)」の系統。これは月と不死にまつわる縄文時代からの原始的なイニシエーションに結びついていく伝承で、元旦に新年の福運を祈って行われる「若水迎え」は明治頃まで民間に残っていたようです。

二つ目は「海潮、及び舟」。これは古代の海洋民、ないしポリネシア系の人たちの影響を受けているであろう伝承。

三つ目は「農耕、及び暦法」。これは五穀の栽培やそれに伴う農事暦と月齢の関係にまつわる農耕民の伝承です。

古来より日本人にとって月神は人間の誕生と死、復活(若返り)をつかさどる存在であり、古代オリエントやポリネシアなどと共通する海や舟との強い結びつきをもち、また稲などの種まきの際に来臨する豊穣の源泉でもあり、水神や竜神とも紐づけられ、人を救いもするが、一方で白痴や狂人、病いや不具をも生むのだと。もっとも、こうした月にまつわる信仰は広く世界中で見られるものですよね。



魔女たちの基本にある、月の三相(上弦、下弦、満月)を女性の一生、つまり少女、母親、老婆にたとえる三相女神という考え方があります。この考えは古いもののように思われるけれど、20世紀の詩人ロバート・グレーブスによる詩的な文学『白い女神』が出元だというのが通説ですね。

ただし、古代ローマの時代からあるけれど、当時は、月の満ち欠けじゃなくて、地平線の下の月、地平線上の月、高い月という点で3面を考えていたという記述はあると、プルーデンス・ジョーンズさんの論文で読みましたよ。グレイヴスの有名な『ギリシャ神話』のなかでも月の三相と運命の女神は結び付けられているし、

また19世紀の神話学者ハリソンは月の三相は古代ギリシャの季節に結び付けられていたと言っています。20世紀最大の魔術師とされるあのアレイスター・クロウリーの魔術小説はグレイブスに先立って、月の三重性をこんなふうに記述している。

「繁雑な細部を超越したところに月の大いなる特徴がある。それは三重性のものである。月はアルテミスもしくはダイアナ、太陽の妹にして輝く処女神なのだ。そして月は秘儀を与えるものとしてのイシス、人間にすべての光と純粋をもたらし、人間の動物的魂と永遠の自己を結びつけるものでもある。この月はまたプロセポネもしくはプロセルピーナ、二重の性質を有する魂であり、年の半分を地上で過ごし、もう半分を冥界で過ごす。…そして第三に、月はヘカテである。それはまったく《地獄》的なものであり、不毛、忌まわしき感覚、死と邪悪な魔女の術の女王である」(『ムーンチャイルド』 江口之隆訳 創元推理文庫)

月の闇の性質は光と闇の二元どころか三相のものとしてイメージされてきたというわけ。



月神を三体として見る古代的思想は北欧神話にもみられますね。仏教では、阿弥陀三尊とも紐づけられていたようです。

観音菩薩は阿弥陀さんの「慈悲」を表す化身だそうですが、かつて年越し派遣村の村長をやった湯浅誠さんが『反貧困』という著書の中で、現代日本社会を「滑り台社会」と表現をしていました。

つまり、一回失敗したらとりかえしがきかず、企業側の労働力の非正規雇用化と政府の容認がそれを加速化させており、貧困層の広がりという現実を自己責任論のみで片付けるのは間違いではないか、という考え方です。これを占星術的にいえば、土星が強くききすぎて、いのちの切り捨てや抑圧が横行してしまっている、とも言えます。

確かに現代の日本社会というのは、リアルで24時間社会となっていて闇がない、つまり月が消えている社会ともいえます。だから慢性的に月への渇望感みたいなものがあって、そういうものがベースにあって、「スーパームーン」とか「ブルームーン」とかネットのニュースや、SNSのホットワードとなって表れているのかもしれないなって思います。

天体の動きというのは非常に規則的なわけですが、スーパームーンやブルームーンというのは通常の動きを逸脱した特別バージョンのとき。

まだ闇夜が残っていた昭和の時代までは、一回失敗しても見逃してあげよう、鬼っ子のような存在も許そうという、雰囲気があったと思います。そういう鬼っ子的なことは非常に月っぽい要素です。



マージナルなものとうまくやっていくという。



本当に。現代の日本人はそういう感覚を取り戻していく必要が、どうもあるんじゃないかと。かつての日本人はそういう感覚を強くもっていましたよね。

例えば俳句の世界だと月は「真実の世界を語る」象徴となっているんですよね。

「夜ひそかに虫は月下の栗を穿つ」

という芭蕉の句があるのですが、人間というのは栗の中に産み付けられた虫みたいなものだと。いのちがありありと、明々白々に感じられる月の下で、閉じ込められた虫は懸命に栗(「西」の「木」であり、死に近づいていることを連想させる)をうがっている。孤独に、昼も夜も。

「穿つ」という言葉も「伺う」から出てきたらしく、月に伺いを立てるという解釈をすると、これは神仏にご託宣をうかがっている=自身の在り方や行方を問うている光景と重ねているのだともいえます。

月を見てそこに神々を見出してそこに伺いを立てる、人はそうやって生きてきたという心象風景がよく表れていると、俳句の先生は言っていました。どうも芭蕉は十五夜の満月生まれで、月を見上げるのが好きだったようですね。

こないだ松本城にいったんですけど、そこにも月の神が祀ってあって、二十六夜観音と呼ばれていました。それが降りてきてわたしを祀れと言ったという伝承が残っているんですね。



昔、二十六夜講とか十三夜講、二十三夜講とかあったらしいね。庚申講のようなもので、月待信仰というもの。きっかり新月とか満月というのではないのが面白い。

さきのプルーデンスさんの論文からの孫引きになるけれど、アレキサンドリアの教父クレメンスは、こんな言葉を引用しているらしい。

「運命の女神(Fate)は月(Selene)の三分割である。13番目、14番目、そして第1の月(新月)である」

いわく、満ちてゆく月、満月、暗い月というふうにも解釈できるけれど、それにしては変だよね。13番目という半端な月齢を持ち出すのは。想像力をたくましくすると、十三夜講と同じようなものがあったのかもしれない、なんてね。



月が神として地上に降りてくるのをまったり、おがんだりする風習ですよね。

そうそう、白隠慧鶴という禅宗のお坊さんが養生法について最晩年に書いた「夜船閑話」という書物があります。その中に「月高くして城影つく」という一文があるんですが、これもさっきの俳句の解釈と同じ先生によると、この月は「心月」であって、心を開いて満月のように輝けば神仏と一体化して影などさっと消えるもの、つまり月とひとつになれる境地までいけば長生きなんていくらでもできる、と言っているんですよね。これはけっこうポジティブな感じ(笑)。



太陽は一番南から上るときは夏至で、北から上るときは冬至と1年のサイクルの中で収まっていますが、月の場合はそれは19年サイクル。かように、月は動きが予測が難しく複雑だけど規則性がある。そういう自然の摂理を感じやすいのが月だったんじゃないかと思う。月は、昔の人にとっては、ものすごい驚きがあって変化に満ちていた存在。

不夜城となった現代社会だけど、キャッチーなネーミングにつられてもいいから、月を意識して、夜空を見上げるというのは、本能的にみんなが欲していることかもしれないね。

ということで、みなさん、スーパームーンの中秋の名月、夜空を見上げてみましょう。

(了)

ー 他コンテンツ紹介 ー

シュガー プロフィール

Sugar(シュガー)
1983年生まれ。サラリーマンを経て、占い師。現在、個人鑑定・講座・執筆活動中。
鏡リュウジとの最初の出会いは、「ユリイカ」に掲載されていたシュタイナー研究で著名な美学者・高橋巌氏へのインタビュー。この時に覚えた違和感が、占星術へハマるきっかけに。慶応大哲学科卒。男性占い師ユニットNOTFORSALEメンバー。

●特技はどこでもすぐ寝ること
●ソウルフードは中本の冷やし味噌ラーメン

鏡リュウジ占星術

鏡リュウジ占星術TOP
鏡リュウジ占星術公式スマートフォンサイト
鏡リュウジiPhoneアプリ
鏡リュウジ占星術携帯サイト


鏡リュウジ夜間飛行