鏡リュウジ公式サイト BETWEEN THE WORLDS

上なるモノは下なるモノのごとく、下なるモノは上なるモノのごとく。



「オカルト」とは
そもそも「隠されたもの」という意味のラテン語。本コーナーでは、鏡リュウジが気になる「オカルト」的なことをお題に選んで掘り下げていきます。

オカ研File No.47 シャーマンの脱魂型と憑依型の二分類を考える2
2018/10/11

シャーマンの脱魂型と憑依型の二分類を考える 1

-----------------------------------------
シャーマンの脱魂型と憑依型の二分類を考える【2】
   加藤之晴×鏡リュウジ
-----------------------------------------


加藤
現在イタコは後継者不足で消滅の危機に瀕していることは研究者の間では周知の事実ですが、そんな状況でも「イタコ」のやることやその姿を多くの人がイメージできる。

こないだAmazonで戯れに「イタコ」って検索したら、すごい細密なイタコのフィギュアが出てきてびっくりしました。もちろん即ポチりました。そんな彼女たちは憑霊型シャーマン以外の何者でもないですよね。逆にいえば日本で「シャーマン」といったとき、エクスタシー(脱魂)型のシャーマンをイメージできる人はまずいないんじゃないでしょうか。

イタコは完全に死者の霊に自身の身体を受け渡している(ことになっている)。日本の宗教者の中には、「おまえの後ろに10年前に死んだおじいちゃんの姿が見える」と依頼者に向けて語ったり、あるいは、「わたしの後ろには不動明王がついているから、その力であなたの病を治します」というスタイルで病気治療をおこなったりする人もいる。これらは憑霊型のシャーマンだといえます。

みんな、見えない世界の存在、つまり神様でも仏様でもお不動様でもそうした超越的な存在(=霊的存在)からシャーマンの身体に接近しているという状況です。

その接近の度合いがいろいろあって、たとえば、身体から少し離れたところにいる霊的存在の声が聞こえるとか、姿が見えるとか、それは人によっていろいろです。さらには自身の背後に不動明王を感じる人もいますし、霊的存在がシャーマンの身体にもっと入り込むことになると、イタコがまさにそれで、シャーマンの人格そのものが消滅し、霊的存在が一人称でシャーマンの口をかりて語り出すことになります。

そこで私が師事した佐々木宏幹先生は、こうした日本や東南アジアの事例を踏まえて、エリアーデ的「シャーマニズム」概念(=脱魂型)に「憑霊型」(エリアーデが「霊媒」≒「副次的事象」として「シャーマニズム」から除外したヤツ)を加えて、シャーマニズム概念に広がりを与えたというわけです。

佐々木先生は著書ではもちろん、実際の授業でもこの「脱魂型」「憑依型」の分類の重要性を再三にわたり主張されていました。でも、院生になりたての頃の私は正直「別にそんなことどうでも良いんじゃないの?」と思っていました。


僕が先生と共感しちゃったのはまさにそこです(笑) 学者ってのはどうでもいいようなことを概念化するんだなあ、とか思っていました。

加藤
でも、大学院を終えて自分が大学で講義を担当する段になり、私はこの「脱魂型」「憑依型」を学生たちに説明しなくてはいけない場面に直面します。当人がその必然性・重要性をあまり感じていない事象をひとさまに大事なこととして教える、というのはどうにも無理がありますよね。明らかに言葉が上滑りしているのがわかります。

あるとき、今となっては何の本だったか思い出せませんが、「人間観」における洋の東西の違いを論じている箇所を読んでいたときに、ふとシャーマニズムにおける「脱魂型」「憑依型」の分類および二つのタイプに向けられた評価の違いが東西の人間観とかなりダイレクトに結びつくことに気がつきました。

人の行ないにおいて常にその個人の意志、自我意識が原動力として前提されている西洋の人間観においては、個人の意志を放棄した状態といえる憑霊・霊媒状態がポジティブに評価されることはない。だから憑霊状態に陥った人はかつては「(絶対悪である)悪魔に魅入られた哀れな人間」として悪魔祓いの対象となり、近現代においては精神科医による治療の対象となった。

なんて解釈ができそうなことに気がついたときから、私にとって退屈だった、シャーマニズムにおける「脱魂」「憑霊」タイポロジーの重要性が理解出来るようになりました。


エリアーデはシャーマンのことをマスター・オブ・スピリットと表現していましたよね。この「マスター」という言い方がまさに深い意味をもってきますよね。自分自身の魂であれ、超越的な霊魂であれ、それにたいしての「マスター」でい続けることが重要になる。

一方で、日本においては「憑依」されてしまうことにたいしてもさほど抵抗感がない。というか、それを高く評価してしまう面もある。そこに西洋と日本の文化の違いが明瞭に現れているのではないかという観点ですね。

加藤
兵頭晶子さんは『精神病の日本近代 憑く心身から病む心身へ』(青弓社、2008)のなかで、近世→近代へと移りゆく日本社会のなかで、「何かが〈憑く〉人」に向けられた視線の変化の様子を描いています。

明治期になって西洋から西洋的人間観およびそれに基づいて構築された精神医学が入ってくることによって、〈憑く〉人は、ときとして人知を越えたポテンシャルを発揮する人というポジティブな理解を剥奪され、重篤な精神病者のレッテルを貼られたと語っています。


日本の近代化は少なくともお手本として「西洋」を目指していましたからね。

加藤
これは授業での持ちネタなんですが、「脱魂型」と「憑霊型」のハナシから展開して西洋と日本の人間観の違いを説明しようとするとき、わたしは『ウルトラマン』を事例として引き合いに出すんです。

ウルトラマンが怪獣と戦っているとき、ハヤタ隊員には自我意識がないんですよ。初代ウルトラマンの話にかぎりますが、この設定は徹底していて、最終回に到るまで、彼は変身後の記憶がないんです。つまり、ウルトラマンに変身したハヤタ隊員は、ウルトラマンに憑依されて自我意識を失っているのです。

『ウルトラマン』においては、巨大な悪を倒すときの意志の所在はどこなのか、その意思は誰のものなのか、ということはあまり問題視されていない。「聖なる力」が発現して、悪を倒すということが大事。

一方、アメリカ(西洋)のヒーローものには、「意志」の存在が前提にあります。一例を挙げると『バットマン』です。バットスーツを着ることで常人を超えたパワーを発揮するけれど、スーツの中の人間(ブルース・ウェイン)の意志は変身前から継続しています。強い意志を保ったまま、パワーアップされた身体を使って悪を倒すのです。「強い意志=悪を憎む強い心」がないとアメリカン・ヒーローは成立しないんですね。

悪を倒すという強い意志が継続されてこそヒーローはヒーローたりえるってのが西洋っぽいところと思っていただけるとありがたい。でも日本最初の巨大変身ヒーロー作品である『ウルトラマン』においては、そこはどうでもいいことなんです。つまり、超人的力が発現し、悪を倒すという場面において、その行為に先立つ意志の存在や、その意思の源となる人格の連続性というものは、少なくとも初代ウルトラマンの世界においては重要視されていない。そこに東西の人間観の違いをうかがうことができるかもしれない、という話です。



人格の一貫性。その意志Willが重視されている。となると、どうしても僕のジャンルでは近代における魔術の定義を思い出してしまいます。
19世紀末にイギリスで作られた魔術結社に「黄金の夜明け団」というのがありますよね。そこで名をあげたクローリーが現代魔術の定義をしたんですが、有名なのは、「意志のもとで変化を引き起こす」というものです。近代の魔術においてはこの意志というのが徹底的に大事なんです。意志を放棄してしまうと、魔力に翻弄されてしまう。

加藤
そこで鏡さんにお伺いしたいのですが……。
日本でいわゆるシャーマンと呼ばれる人たちは、この分類でいくと、ほとんどの人が憑依型になるのですが、鏡さんがご専門の現代のヨーロッパの魔女はどちらなんでしょうか?


ここが面白いところです。もしかしたら、西洋の魔法は単純にわけられないかもしれない。西洋の儀式魔術には魔法円というのがあります。この魔法円の扱い方で違いが顕著に表れますね。

俗流のイメージでいうと、中世の儀式魔術をやっている人たちは、悪魔を呼び出したら、その悪魔を魔法円の中には絶対にいれてはいけないことになっています。魔法円の外側の三角形の中に悪魔をいれて、そこで悪魔と対峙していきます。古典的な魔術において、魔法円は自分の意識領域を守る防御壁なんです。

それに対して、ネオペイガニズムとしての現代の魔女(ウィッカ)は、同じように魔法円を作りますが、境界線が緩いんです。一応、出入りするときには魔法の短刀(アサミイ)で出入の所作はするようですが、出入りができること自体がゆるいですよね。魔法円の線をときどき消して、出たり入ったりさせて、魔法円の中にいろんなパワーを呼び込んでそれを使っていこうとしたりしますね。

この魔法円を心理学的に自意識の境界の象徴と考えると、なんだかちょっと面白いかもしれませんね。これはユングに関心のある僕の勝手な見方ですが……。

あるいは、現代魔女術で月の女神を引き下ろすドローイング・ダウン・ザ・ムーンという儀式がありますが、これは「憑霊型」ともいえそうです。ただし、この場合でも完全に自意識を放棄することはないですね。

自我意識、つまり冷静な意識をどこまでキープするかということの力点、つまり自己コントロールの有無の重要性が大事なのであるということですが、近代の魔女、ウィッカたちは、西洋近代へのアンチテーゼとしての意識もあるから、もっと緩くなっているのかもしれない。

それでも、自分の意識を完全になくすというのは、絶対にさせませんね。どこかで意識をスライドさせる、という言い方をしていますね。おそらく、意識をなくす、ということにすごい恐怖心があるんです。

ところで、脱魂型・憑霊型の区別を分けるのと同じように疑問に思っていたのは、宗教と呪術を古典的な宗教学では分けようとする傾向があったでしょう?あれも若い頃にはピンとこなかった。

加藤
現代の宗教人類学者からしたら、この二つにびしっと線を引くことはできませんね。「呪術」と「宗教」は連続線上に置かれるものであって、個々の宗教的な行為は「呪術-宗教」のグラデーションのどこかに位置づけられるものだと私たちは捉えています。


現代の話だとそうですよね。それ以前の近代以前、つまり19世紀頃の話ではどうでしょうか?

加藤
初期人類学者たちがいうところの「呪術」は、端的にいうと「未開社会の宗教」という意味合いのものなんですね。当時の西洋人からしたら「宗教以下の宗教みたいなもの」ということでしょう。それはつまり「キリスト教以外のもの」ということでもあります。呪術は、キリスト教が届いていない野蛮な社会にこそ存在するものと彼らは考えたかった。


つまり、宗教は複数形では語られなかったという話ですね。宗教学が成立する以前は、「神学」ですものね。立派な宗教と、マンボジャンボがあるという。

加藤
当然日本にまでそのニュアンスは響いています。現代のお坊さんは自分達の行ないを「呪術」という言葉と結びつけて説明されたりすると、たいがい嫌な顔をしますね。

(つづく)

シャーマンの脱魂型と憑依型の二分類を考える 3

ー 他コンテンツ紹介 ー

加藤之晴(かとう ゆきはる) プロフィール

加藤之晴(かとう ゆきはる)
1965年生まれ。静岡県浜松市出身。駒澤大学・国士舘大学など非常勤講師。専攻は宗教学・宗教人類学。宗教オンチの両親によって、キリスト教系新宗教の全寮制高校に放り込まれたものの、日々の生活について行けずに2ヶ月で退学したことがきっかけとなって宗教に興味を持ち始める。現在は九州地方のシャーマニズムを中心とした宗教文化について、フィールドワークに基づいて研究中。霊感はありません。

鏡リュウジ占星術
ホロスコープツール

鏡リュウジ占星術TOP
鏡リュウジ占星術公式スマートフォンサイト
鏡リュウジiPhoneアプリ
鏡リュウジ占星術携帯サイト


鏡リュウジ夜間飛行